戦前のおけいこについて 昭和13年~18年暮れまで 小原流『挿花』1964年6月号 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 2月 20, 2022 いけばな小原流の谷田貝一雅氏による「花日記」。昭和13年から戦争で休止になる昭和18年の暮れにかけてのおけいこの花材や費用などのメモ。花など「不要不急」と言われ、花よりも食糧生産が優先されていた戦時中にも、いけばなを続ける人たちは少なくなかったと思われる。そこには花材を生産する人、流通させる人たちがいたのである。貴重な記録。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
1970年の年初にあたって、レジェンドたちが日本園芸界の展望を語り合った座談会の記録 1月 21, 2026 ※暮らしのなかに花を→花の中で暮らすへ ※1970(昭和45)年は、戦後25年、戦後に生まれた若者が結婚する年齢となり、毎年、100万組が結婚して家庭を持った ※文中の清野氏の話に出てくるブロワーは、グロワーの誤り 続きを読む
「園芸趣味」を創り出し大衆化した文人、前田曙山(まえだしょざん)の著作関係全仕事解説 登山、写真、高山植物の栽培、花卉装飾、園芸雑誌の主宰、大衆小説の泰斗 11月 30, 2024 執筆中の前田曙山 ダンディな人であったという。 『私の大衆文壇史 』(青蛙選書) 萱原宏一 青蛙房 1972から ※文中で、前田曙山が、『園芸之友』(1905~1912年ごろ)を主宰したと記してしまいました。いくつもの資料で同様のことが記されていますが、全集や、実際の当時の『園芸の友』などを確認してもその事実が確認できません。『明治園芸史』1915 の前田自身が書いた「明治年間花卉園芸私考」のなかでも『園芸の友』に触れていますが、自身が手掛けたとは一切言及していません。 前田曙山はこの時代、向島花壇として知られた東京園芸株式会社の役員をしていて佐々木文一とともに、文学仲間の丸岡九華(久之助)を専務取締役に招いたりと、中心的な立場にありました。その後、会社は隅田川の洪水などで大きな被害を受けるなど経営難に陥っており経営陣の内紛もあって明治42年には解散しています(九華は一カ月あまりで退任)。こうしたことを考えると、日本園芸研究会が主催している園芸雑誌『園芸之友』を「主宰」していた、ということは考えられません。ここであらためて記事の内容についてお詫びいたします。 前田曙山は、明治後期から大正、昭和にかけての園芸ブームを牽引した最大の功労者の一人。若い頃から大衆小説の人気作家となり、生涯にわたって作品を書き続けた。後期の作品はいくつもの映画の原作となり、多くの人に愛された。 曙山は、登山家や写真家としても日本の先駆けであり、その名を残している。 植物学でも牧野富太郎に師事してよく学び、高山植物の採集や栽培にも力を入れた。東京・向島の大きな園芸会社の役員を務め、わかりやすい言葉で植物や栽培することの楽しさを伝える『園芸文庫』14巻や『高山植物叢書』などを表した。高山植物の栽培はブームとなり、それらの花をモチーフにした小物が流行したという。 明治後期には 『園芸之友』という雑誌を主宰し 、園芸文学、園芸小説というジャンルをつくり、物語を読むことで自然と園芸知識が身につくようなものを世に送り出している。 前田曙山が記した「明治年間花卉園芸私考」(『明治園芸史』 p505~ 日本園芸研究会編 1915)は、明治期の花卉産業の貴重な記録となっている。 以下、曙山の全仕事の概要がわかる資料をここにテキストとして記録する。 ひとつ、曙山の誕生日は明治4年11月21日であるが... 続きを読む
風流一生涯 西川一草亭のこと 3月 15, 2025 ● 西川一草亭 『盆庭と盆石』創亓社 1936 から ● 藤浪和子 西川一草亭先生 『新文明』 12(11) 1962年11月号 ※藤浪和子(物集和子 1888~1979) 小説家。 青鞜社設立発起人の一人だが挫折のため青鞜社については生涯ほとんど語らなかったという。父親は国文学者の物集高見、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。夏目漱石に師事しもの書き修業をした。 ● 小原豊雲 『花道周辺』 1950から 西川一草亭のこと 故西川一草亭は、大正の末から昭和にかけて大きい足跡を遺した花道人であった。例の「牡丹切って一草亭をまつ日かな」の句を夏目漱石が作ったのは、この人の名を世に高からしめているが、それよりも、世の多くの芸術家や財界人とも交り、それらに伍す位置を示したのは、新しい驚きを世に与えた。他の花道家との交りはなく、云はゞ別格のようなものであったが、それでいて花道そのものゝ位置を社会的に定めた功績は大きい。 その花展は、京阪神の大邸宅をかりてよく行はれたが、百貨店を用いて行はれる花展とは別の趣きのものであった。その行き方は、今日に行はれている新しい花の創作というよりも、いけ花の中に流れてゐる精神をつかみ、それを新しい時代の生活に生かさうとしたものである。又、これによって、いけ花の趣味を深めて味はせる役割を果した。さう云ふ精神的意味でいけ花を普及した人であった。 この西川氏の活動があった時、その反面に、吾々は、作品としての新しい花の研究をすゝめていたのである。何れにしても、その仕事は、現代花道の動きにとって大きいプラスであった。近世にあってはとにかく西川さんである。 その西川一草亭さんがなくなった時は、未だ二代の在世中であったが、私はその意をうけて弔意を表しに京都までいった。生前に直接の交際があったわけではないが、その死を悼んで態々弔意を表したのである。その時も、あれだけ社会的に活動していた人であるから、葬式は定めて盛大なものであらうと予想していたが、家の中に這入ると、何も特別のものはなく、床の間には、故人の絶筆であった「風流之人」といふ一行がかゝり、それに、白いアマリリスの花が僅かに手向けられていたのみである。葬儀の形式も、普通のお焼香ではなく、一輪の花を霊前に捧げる方法であった。会葬の人々は、新しい手桶の中に入れられ... 続きを読む