1968年(昭和43年)「アメリカ西海岸 花と種苗生産視察団報告記」を読む (3) 生花商と花市場の見学

 (3)-1 「生花商」班 見学日記 関江きよ(花重商店) P84、85



「生花商」班見学日記 関江きよ

 四月二十四日(水)
 花卉生産班と同じ。
 四月二十五日(木)
 九時出発。大きなバスにガイドの竹尾さんを加えて一三名。ゆったりとすわった。まず、自己紹介をして名刺交換。
 第一の見学地はサンフランシスコ市立大学。ここで装飾園芸部門を見学。二日前にあったという生徒作品のデモンストレーションをそのまま残しておいてくれた。お伽の国というテーマで、各班がアレンジした作品が可愛い。そこで日本の生け花を二つほどいけてあげたり、その後マリーホープ夫人(大学の教師)の招待で昼食。
 この後、グリーンハウスをまわってからロッドマクレランにゆく。コーサージブーケでおなじみのランが沢山作られていることにびっくりし、少人数を幸いにゆっくりみた。それから、ストーンハーストホールセイル・フローリストにいく。コレマツ氏の店である。それからサンフランシスコ市内に車で帰る。
 四月二十六日(金)
 ロスアンゼルスのヘッドドレス・ボールヘいくために四人ほど減って、九名でバスに乗り、ザペティニィー・カンパニーにいく。ここはシッピング(*国内外各地への転送)が主である。それから、サンマティオ方面にゆき、サンマティオ・フローリスト、オーサン・フローリストにいき近くの公園で昼食。ここには日本庭園もあるという。その後、サニーサイド・ナーセリー、シバタ・ナーセリーヘ花卉生産班と同行する。
 四月二十七日(土)~四月三十日(火)
 花卉生産班と同じ。
 五月一日(水)
 午後二時から小さな車でクロスリーズ・フローリストにいく。広々としたウィンドーにはアレンジメントをはじめ、沢山の作品が飾ってある。フェルトリボンで作った花やペーパー・カーネーションが印象的たった。ウィンドーの一部は冷蔵庫になっており、やはり作品がはいっていて、外からみるようになっている。
 ついでファーマーズ・マーケットヘ。ここにも沢山の作品が陳列されており、スケッチをしたり仲々忙しい。二階にホンコンフラワーで結婚式用装飾のサンプルができていた。日本人も男女三名ずつ働いていた。
 その後、フラワービュー・ガーデンヘいく。アーサー・イトウ氏の店。この店の特徴は地下の作業場からエレベーターで歩道に花を運びだせるようになっていることである。アレンジメントなど八〇点くらい一度に運びだしている。フルーツとコーヒーのご馳走になり、自己紹介をする。

 五月二日(木)
 九時出発。 一行一一名で、まず、モスカテル・ブロードウェイ・フローリストヘ 地下の作業場で黒人のデザイナーがせっせとアレンジメントをしていた。日本人の女性も三人働いていた。コーヒーとケーキをご馳走していただいた上に、皆んなにサインペンをプレゼントしてくれた。その後デスカンソー・ガーデン、アーボンイタム・フローリストをまわり午後は自由行動にした。

サンフランシスコ市立短大
 ここには職能科の中に装飾園芸としてフローラルスクールがある1年間の課程中でフローリスト・デザイナーに必要なレッスンをする。留学中の今井(ハナモト*の子息)さんの奨めで作品ショーを見学。アレンジメントの授業中で、「日本のいけばなを…」といわれ、草月流、小原流の花をいける。留学生斎藤さんの案内で構内を見学。ここには、農学部的な実習中心の花き園芸部門もあった。(*ハナモトではなく、ハナトモだと思われる。浅草橋市場、ハナトモの3代目今井市郎氏の子息の弘一氏か、1972年にはエクセレントトゥエルヴのメンバーとして活躍https://karuchibe.jp/read/13235/

ザペティニィー・カンパニー
 日系ハク氏経営の卸屋。シッピングが主で全米、ヨーロッパ向け。ポリスチロールのボックスに氷をいれている。出荷用の箱もここで製作。製氷機もあった また、ドライフラワーも扱っていた。

サンマティオ・フローリスト
 地下の六六m2(二〇坪)位の部屋でアレンジメントの仕事をしている。できたものを冷蔵庫にいれておく。店頭はホンコンフラワーが多い。

オーサン・フローリスト (*久保数政氏が研修したアーサムと同じ店ではないか?)
 たいそう大規模な花屋である。片の後に大きな温室をもっている ご主人は中国系で親日家。日本人も数人働いており、盆栽もみられた。すべての装飾(パーティーの)をひきうけるので、小道具のみならず、水銀灯のようなものまでもっている。
 日本に較べてパーティー(結婚式とか卒業式とか、娘の社交界デビューのためなど)における花の役割りは大きく、その金額も一万~二万ドルと、信じられないほどのものである。

フラワー・ビュー・ガーデン
 アーサー・イトウ氏経営。アーサー・イ卜ウ氏については、へッドドレスボールの項にも書いたので、そちらをみてほしい。
 この店には、日系人が五、六人働いていて二年間という契約だそうだ。ロスアンゼルスでも割合に大きな仕事をしている店といえる。日本人の間で有名な奥さんは、一時、恵泉女子短大にいらしたことがあるそうで、「恵泉の先輩がここにもいた」と恵泉出の二人(松崎、草野両嬢)はよろこんでいた。一昨年だして二位だったというヘッドドレスをみせてもらった。


(3)-2 「花市場」p48~51



カリフォルニアの花市場

カリフォルニア・フラワーマーケット  中川勝八

 今回の視察の目的の一つとなったサンフランシスコの生花市場のことについて、今まで或いは正確でない理解が行なわれていたように思われるので、記しておきたい。
 ここは市内のストックトンという地区にあって便利な場所で、表通りから横に曲ると道をはさんで向い側や付近に花問屋の店が並んでいる。その数は二二軒とのこと。その続きにこの生花市場が建てられている。正面の屋根の下にカリフォルニア・フラワー・マーケットと記されている。もともと問屋が集っているので、そこに土地を選んで市場を作ったのだということであった。高い屋根のがらんとした、室内体操場のような二〇×四〇mぐらいの建物で、入口に近い一隅に小さな事務室があって支配人の矢田部氏と一人か二人の事務員が、計算機らしい事務器械の中で仕事をしていた。
 われわれが視察したのは五時半から六時半頃にかけてであったが、カーネーションやキクをはじめ、種々の切花やポットマム、その他の鉢ものが持ち込まれ、置き台や床の上はいっぱいになっていた。
 矢田部氏の説明によれば、七時になると問屋の人達が入ってきて、それぞれ手押車などで品物を運び出すとのこと。それなら競売はいつやるのかというと、せりはやらないという。きいてみると取引きは前日のうちに生産者と問屋との間で電話で話がついているので、市場は現物受渡しの場所として使われているのである、もっとも、約束ずみの品物以外にも持ち込まれる場合があるかと思われるが、それらは、その場で誰にも相対で話し合って片付けられるのであろう。
 そこで私どもは「生産者の市場」というように聞いていたので、その点をもう少し突込んできいてみたのであるが、確かにこれは生産者の市場でここは今約一〇〇人の生産者が登録しているという。その意味は株をもっているという意味と考えられるが、いくらの出資をしているのかは聞き損じた。問屋も株をもっているかとの問いに対してはもちろん「否」であった。
 市場自体の経営の仕方については場所は約一八×五一cm(七×二○インチ)を一区画として貸しているが、一平方インチの借料が月三〇ドルで、借り手の多くは百ドルぐらい払っているという。また品物の出し入れは売買の当事者が自分でするのであるから、市場はただ四人の使用人で維持されているということであった。

 ついでに説明を加えておくと、カリフォルニア州の花の供給は、北部はこのサンフランシスコの花市場から、また南部はロスアンゼルスの花市場を中心として行なわれているので、そのうち北部については、右に紹介したカリフォルニア・フラワー・マーケットのほかに、すぐ隣りに並んで、サンフランシスコ・フラワーグロアーズ・アソシェーションという名称を掲げた花市場があり、この方は特に観葉植物の大型な鉢植えなどが印象
に残っているが、そういうものを主として扱っているので生産者としてはイタリー系の人達であるという話であった。また、もう一つ他の場所に花の市場があって、そこは支那人系のものであるが取扱い数量は少ないとのことである。
 取扱い数量のことであるが、北部カリフォルニアの年間流通総計が五千万ドル(一八〇億円)と言われるが、前記の日系の市場を通るのが大体五〇%で圧倒的であるという。問屋は前記の二二店以外にも市内に散在しているものがあるのはいうまでもない。また、一次的な問屋の下に二次的な問屋があることも付け加えておきたい。それから生産者は問屋(ホールセーラー)に売るほかに、ニューヨーク、シカゴそのほかの遠隔地へ出荷す
る送り屋(シッパー)相手に生産品を販売している。
 送り屋は市場を通さず直接に生産者から買うのが普通であるようである。また特に大きな生産者は自力で送り屋の仕事もやっている。このことは南部の方の大農園では普通のことのようである。
 以上で取引きの外側の事柄は概況を述べたつもりであるが、一体花の卸価格がどのようにして決まるのか、肝腎のところがよくわからない。そこのところを、ずばりとはっきりききだして来るべきであった。しかし、おおよその推察はできていないのではない。すなわち以下のようなことである。
 生産者のところを回わって説明をきいている間に話のはしばしから受けとったことであるが、生産者(ことにかなり規模の大きい農園経営者)たちが協議会などを開いて、販売価格の協定をすることは公取委からにらまれることになるので、そのようなことは行なわれない。農園の経営者は顧客である問屋と予め翌年度の花の受渡し価格について相談をして決めておく。その内容は季節による差を織り込んだものである。
 たとえば、カーネーションなどでも冬の価格と、夏の価格とに分けて決めてある。生産者は買い手の注文に応じて出荷するのであるから、あらかじめ協定した価格で渡すのである。もし注文以上に品が出来たときは、なんとか売る努力はするだろうが、それでも残ったものは捨てるわけである。捨てるというよりは放置するといった方が当たるかもしれない。このような仕組みで、花の相場はおのずから安定を保っているのであろう。花の相場は一年約束で平均水準が年初にきめられるということは、シスコの市場の矢田部氏の答えにもあった。



サウザンカリフォルニア花市場 植村猶行

 五月三日午前五時、朝食前にホテルを出発して、サウザンカリフォルニア・フラワーマーケットを見学した。その日はたまたま金曜日であったが、市場の開く月、水、金の三日のうち、一番金曜日が忙しいそうである。市場は午前三時から開かれるが、四時から五時の間か最も盛んで、大部分はこの間に取り引きされるとか。然し午前中は開いているそうだ。
 この日南カリフォルニア日系人商業会議所顧問で、サウザンカリフォルニア・フラワーマーケットの副社長である竹安繁松氏が、お茶とか菓子の接待の合間に、懇切丁寧に説明して下さった。以下は同氏の解説の主なことがらをお伝えすると同時に、不充分のところは写真をご覧願って、おおよその内容をご推察いただこう。
 この市場は五〇余年の昔に出発したが、州知事の認可を得たのは一九四〇年で資本金一〇億円を一五三名の株主が均等に株を所有している。株主は二人の白人を除いて全員日系の生産者で、各人この中にテーブルを持っていて、相対で取り引きを行なっている。各人それそれにお得意様が決っていて、その注文を中心に生産計画を立て、そのお得意の来るのを待ち、お得意様以外の人がきても、予定の品は売らないのだそうだ。こんな形はここだけかも知れない、と同氏はいうせり売りではないから、市場といっても静かなもので、バッジをつけた組合員なら、入口で手押車を貸してくれる。この手押車を押して、欲しい花を集めて回り、二~三階に駐車してある車に運んで帰るだけだ。組合員は現在二、八〇〇名で、テーブルの借り賃はウォールサイド (壁側)が若平面積も広くて、アイスボックスがついているので、一フィート角三七セント、黄色マークの内側が三五セソトで、一ヵ月一一〇ドルといったところ。売れ残っても冷蔵庫へ入れておくので、平気だそうである。
 現在の建物は四年前に建設されたが総額四億円とちょっとかかったそうで毎年の配当の中から積み立てていって土地と建物を自分達のものにしつつあるとか、全面積は五エーカー(二ha)もあるそうだ。最も大量に扱われる花はストック、グラジオラス、キク、カーネーション、バラ、デージー類で、労賃が高くなったので、細かい花は作らなくなってきたとか、鉢物ではなんと言ってもユリとポットマムが一番とか。
 隣りにはサソローレソツオ・ナーセリー経営の個人的な花市場があり、通りをへだてて、白人系のマーケットもあったがその方はやや活気に乏しく、古いせいもあってか暗い感じだった。更にその隣りのフラワーデザイン用資材のお店も大きかったが、番頭さんがやはり法政大学出身の日系人だった。この世界での日系人の活躍は目覚しいものがある。


ロスアンゼルスの青果市場をみて  矢富良宗
 
この市場は、峨前は日本人の経営だったが、いまは白人の手に渡っているそうだ。しかし、いまでも、この市場で働いている日本人は多い。
 集荷はカリフォルニア州内だけではなく、広く全米および、メキシコからもきていて、われわれが見学した五月三日の早朝に、市場内にみられたものは、東部からのリンゴ、メキシコからのトマトやメロン、フレズノからのグレープフルーツなどが目立った。
 取引きは相対売りで、電話での交渉で殆んどさばかれてしまう。市場人は、買手が、トラックで引きとりにくるのに間に合うよう、準備しているというのが実態である。手数料は一五%、レタスなど、一人で一〇〇万ケースも扱っていると、七〇年配近い一世の日本人の市場人が話してくれた。



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