現代美術家、李禹煥によるいけばなの持つ魅力 「いけばな」、「いけばなに思う」
李禹煥『余白の芸術』みすず書房 2000 いけばな いけばなという言葉の響きは独特だ。近代日本の造語のなかでは、特記すべき文化のにおいの濃い新鮮な空間性を持っている。これは中国語にも韓国語にも、ましてや英語などには翻訳できそうになく、だから“いけばな”とそのまま用いられているようである。 昔は、華道が一般の呼び名だったとか。奥座敷でなにやら胡散臭い抽象的な言葉で合槌を打っていればよかった時代があったのだろう。隠れた世界では象徴や秘儀がつきもの。華道というイメージこそは、その見えない世界の、暗黙の了解空間なのだ。そこが魅力で、この見えなさで、人々を煙にまく制度ができていたのかもしれぬ。茶道と同じく、精神や趣味の領域として、閉鎖的な秘儀性が売りものになれたことは想像に難くない。 しかし時代は変わり。人も物も社会もそれぞれ具体的で明確な存在性を要求される世界となった。民主主義の謳い文句のなかで、近代化都市化を余儀なくされ、すべてが白日の下に引きずり出されたのである。当然あらゆる表現物もまた、暗黙の了解事項としてではなく、それ自身の存在理由を持つ、しっかりした客観的な対象性を獲得したものでなくてはならない。伝統的な表現言語を今日の次元に蘇らせようとすれば、その意味も形式も批判的に捉え直さざるを得ない。いけばなという言葉も、そうした時代背景のなかで生まれたものに違いない。 いけばなは勅使河原蒼風の練り上げた言葉だと聞く。花伝書を繙くまでもなくこの言葉は、必ずしもそこらにある花を摘んできて、器に挿すという意味よりははるかに広く大きい。つまり移し替えることであり、組み直すことであり、はなを花に高めることである。素材は別に花である必要はなく、何を選ぼうと、この三つの方法、あるいは三段階の考えが大事であるはずだ。花ばかりが花ではなく、いければすべて花なのだ。いけばなは、いけられてはじめて花になる。いけられて花になるということは、花(はな)から花(ハナ)へとズラされた別な存在性を獲得することであろう。そこに新たな表現言語としてのいけばなの方法や様式性の要請がある。 そういうわけでいけばなは、無からの創造といった厳めしいものではなく、すこぶるポスト・モダン的な余剰性に富んだ表現の一分野に思える。現代思想の文脈からしても、この移し替えと組み直しは、非常に重要な概念であるが、